昭和42年11月10日 月例祭



  (途中から)
 「かわいいと思う心が神心じゃ」と、その神心というのは誰にでもある。もう人間もう誰しにもそれがあるのである。可愛いと思う心が神心。その神心を私共が愈々育てて行くと言う所に信心があるので御座います。お釈迦様の物語の中にカンダタの物語が御座いますですね。もうそれこそ名うての悪人極悪人であった。もう悪い世の中の悪いと云う事、悪という悪を身に付けた様な、言わば悪の見本の様な男であったと。
 この人が死んだ、勿論地獄に行った訳なんです。ある日の朝、お釈迦様がもうそれこそ、蓮の花の咲き乱れておる、池の端をお歩きになっておった。丁度足を止められたその真下が血の池地獄にあたっておる。こう下をご覧になると、もうそれこそ何千とも何万とも分からない、亡者達がもう、うようよ苦しみ喘いでいる姿をご覧になった。この中の一人その、目を留められたのが、カンダタという人であった。
 はあ、あれはカンダタ、ああして苦しんでおるけれども、あれでも1回だけあんなに素晴らしい思い方、考え方をした事があったと、そのカンダタの生前の事を思い出されたのです。カンダタがある山中を山越をいたしておりました。ところが山道の道の中へ大きな一匹の蜘蛛がそこを這い出して来た。いきなりそれを踏み潰そうと思いましたけれども、はあ可愛そうだという心が起こって来た。
 はあ是は、可愛そうだと思うた。だからそこを、またいで行ったというのである。一匹の蜘蛛を助けるその神心。その神心に免じて、でも何とかして救うてやりたい。何とか苦しみのない世界に、住まさしたいという、お釈迦様のお心がです、そのカンダタの目に留められて、そのカンダタの前に、それこそ蜘蛛の糸に、糸にも似た様な、絹の糸を一本お垂らしになった。
 目の前にあえぎ苦しんでおる、そのカンダタの目の前に、それこそ銀色に光る糸が、一本下がって来た。もうそれこそ、無我夢中でその銀の糸に縋り付いたと。でもう、その糸を頼りに一生懸命上り始めたんですね。はあ、是で助かるぞと。是でこの血の池地獄から這い出る事が出来るぞと。もうそれこそ一生懸命で、その糸を手繰って上りだしたので御座いますけれども。
 ふっと自分のその上って来た、後を見た所が是は大変じゃ、もうそれこそまた何千とも何万とも分からない、その亡者たちがその糸に縋って、助かりたいというので又沢山のその亡者たちが、その糸に縋って上って来ておるのを見たカンダタが、そのいわゆる悪い心が起こった。非常な心が起こったんです。折角自分が助かられると思うて上っておるこの糸に、是だけ沢山の者が縋ったら、もう切れるに違いはない。
 そこで大声で下の亡者たちにですね、お前達は誰の許しを得てこの糸を上っておるのか、これは私のだ。さあ下りよ下りよと言うて、その声の消えん間にその糸が切れたと。それこそ想像、金槌を川の中へ投げ込んだ様にですね、血の池地獄のもう奥深くにね、沈んで行くカンダタの姿をご覧になって、お釈迦様が、目にもいっぱい涙が溜まっておったというお話なんです、ね。
 もう極悪人であり、もう悪の見本の様なカンダタの心の中にも矢張りそういう神心と言う物があったというので御座いますから、もう誰しもの心の中にもその心があるのです。ただ今御祈念を、お祭りを奉仕さして貰おうと思うて、ここに座っておりました。したらあの、私の2番目の娘が、とにかくお祭り前に、お届けをしとかなければ、もう堪らないと言った様な風で出てまいりましてね。
 先生今日は友達からこんな話を聞いたんです。その話がもう私の心の中にもう引っ掛って引っ掛ってどうにも出来ない。苦しいまでに思うと言うのは、久留米のある田舎の方の出来事らしいんですけれど、何か事情があってまあその子供さんが、まあ皆に祝福されない誕生であった訳なのですね。けれども矢張り可愛い丁度三つまで育たれた。所がそれが何かちょっとした病気をされてそれでもう構えてもなかったらしいんです。
 もう日頃がもう本当に、もうこの世で(?)と言う様なものから、いらんものに扱われておる、近所の人が可愛そうと言う位だったらしいのです。それがその注射の打ち間違いか何かでですね、それこそ家の者も誰もおらん中に、それこそ自分が知っておる事も知らんで、死んでしまっておったという話を聞いたんです。もうそれを聞いたらもう自分が悲しゅうなったんですね、私まで一緒に悲しゅうなった。
 その人の名前を聞いてきて、お届けをするんです。その三歳になるその何々という御霊がです、どうぞこの世ではまあ、はかない事であり、苦しい事であり、世の中の喜びと言った様な物も知らんなり、まあ果てた御霊ではあるけれども、どうぞ天地の親神様のおかげでですね。どうぞ御霊がおかげを頂きます様にと言うて、私もそれ聞かして頂きましたら、もう本当に胸が一杯に成る様に思いました。
 皆さんでもその話を聞いて、こう下さってです、それを感じられるだろうと思う。それなんです、それが神心なんです。ですから誰にでもあるの、その心は。難波の近藤藤守という先生が御本部へお月参りをなさるその道すがらに、かすみ網で雀を獲っておる人に出会われた。それこそ何も知らずに、餌をついばんでおるところのその雀がもう一網打尽に獲られてしまう姿をご覧になってです。
 まあ何と可愛そうな事をするものだろうか、何と可愛そうな事をするもんだろうかと、と思われた。その事を教祖の神様にお届けになった。本当に世の中にはね、もう情のない人間がおります。道すがらこういう事で御座いましたが、可愛そうな事をする者で御座いますと言うて、お届けなさった時に金光様がですね、その可愛いと思う心が神心じゃと仰った。虫けら一匹の上にでもです、本当に可愛そうだ。
 可愛いと思う心が神心なのである。蜘蛛一匹の上にでもこの殺しては可愛そうなとその心がです、カンダタの心の中にも矢張り仏心があり神心があった、それに免じてでも救うて下さろうとする助けて下さろうとするのですけれども、さあその半面には言わばあさましい心がです、誰の糸と思うて是に付いて来るのかとさあ下りれ下りれと言う様な、夜叉の様な鬼の様な心がこの心の中にお互い同居しておるのである。
 だから信心とはそういう私共の持って生まれて、頂いておる所の神心を神心と分からして貰うて、その神心をいよいよ、育てていこうと言う所に信心があるので御座います。何回かお参りが出来る。本当にこげな有り難い神だとは知らなかった。こういう素晴らしいお話を頂くとは知らなかった。天地のご恩徳なんて今まで考えてもみなかった。天地の道理がある事も知らなかった。
 だから道理に反した生活ばかりをしておった、天地のご恩徳に対して、神恩報謝の生活が出来ていなかった事が分かって来る、そこから有り難いものが確かに生まれる。有り難い喜びの芽が、必ず出るのだけれども、その喜びの芽がいよいよ育つ為には肥料もいる、手も掛るのだけれども、その手の掛る事を肥料になる事を厭うてから、もう信心を止めて行くという、本当に惜しゅうて堪らん様な信心をする人達が沢山ある。
 又は信心をしておってもそこんところを悟らず、ね、信心とはそういう神心を、言うならば喜びの心を育てて行く、と云う事が信心であると云う事を知らずに、ただ我情我欲に走った御利益御利益という、御利益の事だけを願う信心に脱してしまう。是では折角の神心も、矢張り我情の上に我欲の中に吸い込まれてしまって、光を放つ事すらが出来なくなってしまうので御座います、ね。
 私共の心の中には確かに、その我情我欲がいっぱいかと思うと、片一方の方にはですただ今申します様な、神心があるので御座います。信心とはそこんところを分からして頂きましてね、そこんところを育たして頂く所の稽古なんです。信心の稽古というのはもうとりもなおさずそれなのだ。しかもそういう助かりを頂いていくと言う事が、ね、神様が喜んで下さり、お取次ぎを下さる金光大神も喜んで下さる。
 いよいよ私共も助かっていけれる道に出る事が出来、そういう道を辿らして頂く事が出来るので御座います。先程若先生が今月号の「根賀以」の原稿が出来たから一通り目を通してくれと言う訳で御座います。それでちょっと読ませて頂いておりましたらもう、何時の頃の御理解か分かりませんけれども、はあほんにこんな御理解を頂いた事があったなあと私も読みながら思うたのでございます。
 お道の信心では、このあいよかけよと云う事を申します。神も助かり氏子も立ち行く。親の事は子が願い、子の事は親が願い、頼み合いいたせ、あいよかけよで立ち行く道なのだと。そのあいよかけよで立ち行くという道であり、またあいよかけよでおかげが成就していくという、おかげでなからなければ、本当のおかげではないと言う訳なんです。それをこう言う風な例えで表現して御座います。
 ここに見事な額がある、金光様のご信心は素晴らしい、世界の名教だと。とまあ私共もそれを自負しております。確かに金光様のご信心というのは、もう限りがない、その有り難さにおいては。あの平凡な御教え百八十何か条の御教えがです、もうその深さ広さにもう、唯々、信心の稽古をさして頂くと頂く程に、もうその深さ広さに驚いてしまう。成程世界の名教だと。
 んならそういう世界の名教ならです、瞬く間に世界中に広がってもよさそうなものなんだけれども、そこにめぐりがある。難儀の元はめぐりである。めぐりというのは、ね、良い事を聞かせようと思うても、それを聞かせまいとする働きがめぐりのせいなんです。そげな事があるもんかともう言う人は、もうそのめぐりに負けておる訳なのです。世界の難儀というのは、世界の矢張りめぐりなのである。
 メロンか何かの様に高級な果物などは中々そう沢山実らない。まあかぼちゃか何かだったら、もう瞬く間に畑いっぱいに広がっていく。よい物であればある程にそうなのである。花でもそうです。もうこの花はいいなあという花はですね、中々育たない。植えておいて、手を入れよっても段々減っていく。ところがもうこの花はもう少しは取ってもよかと、言う様なのは、もうなんぼでも出来るでしょうが。
 そう言う様な意味合いにおいて、私は金光教の信心は素晴らしいと思うのです。だからいかにそれを素晴らしい、素晴らしいと言うておりましてもです、ならここに素晴らしいん、なら額縁がありましてもです、金光教という名教、名教と言われるお道の信心がありましてもです、中に入っておる絵が、言うなら仕方のないものであったら、是はもう額も死んでしまうのです。
 と言うてなら、絵だけが立派であってもお粗末な額に入れて御覧なさい、もうこの絵はほんなもんであるじゃろうかと、云う事に成って来るでしょうが。どんなに素晴らしい有り難いお道の信心でありましてもです、それを奉じる、それを頂く所の信者氏子の一人一人がです。お道のご信心振りになって行かなければ、お道の信心を現す事も出来ない、又はそれを広めて行く事も出来ないので御座います。
 成程金光様の信心をすりゃあ、ああいうおかげが受けられるんだという、おかげを本当に身に付ける為に、そのおかげの頂けれる所の土台である、元である所の喜びの心、神心、いわゆる和賀心、それを育てさして頂かなければならんのです。金光教という素晴らしいその枠の中に、私共が素晴らしいその、額にふさわしい絵にならして頂く所の願いを、お互いが持たなければならない。
 それは誰しもがその気になればおかげが受けられると、教祖は仰っておられる。ところがそういう、例えば素晴らしい、私になろうと云う事の願いはこちらの方へ置いて、そしておかげおかげという、おかげの方にばっかり目を向けたり、その事だけを願ったりする所にです。金光様の信心も、まあその極端な言い方をすると、結局おかげ信心だと、低級だと、邪教だとすら言う人がある。
 ですから私共が本当に、そういう前にです、私共が本当にやはり道の信心、道の教えによって、真実の助かりを得なければいけない、ね。私共の心の中に、喜びの心がいっぱいである時には、何を見ても喜びである。所が自分の心の中にイライラがあったり腹立ちがあったり、いわゆる心が暗い時には、有り難い事までが苦の種になり、有り難い事までが腹の立つ材料になってしまうんです。
 どうでもひとつ、おかげを頂かせて頂いて、私の心の中に喜びの広がって行く所のおかげ。今日今朝、久留米の矢次さんがご夫婦で朝の御祈念に参ってみえました。それであるお願いをなさった。そしたら私の心眼に頂きますのが、あのヤマブキ、ヤマブキという、今黄い花がいっぱい咲いておりますよね、今頃丁度。ヤマブキというのが御座います。あのヤマブキのね花が一杯こう咲いておる所を頂くんですよ。
 神様が矢次さんのお店の上に、家の上にこういうおかげを下さろうとしておるんだなあと、「妙賀栄える富貴繁盛」という御教えを受けられた事がある。とにかく冨貴繁盛のおかげを頂きたいと、繁盛のおかげを頂きたいならばです、まずひとつ妙賀をみなければならない。茗荷という野菜はもうとにかく広がるもの、茗荷栄える冨貴繁盛だとこう言う訳。お互いが冨貴繁盛の方だけを願う。
 矢次さんもうその事は心配しなさらんでよかですよ、その事は願いなさらんでいいですよ、ですからもう神様がもうこうやってお膳立てが出来て居る様な物であるから、どうぞ夫婦でしっかり妙賀栄えるの方ば、ひとつそこに焦点をおいて信心を続けなさい、長年の信心によって、もうおかげはここにもう、言わば用意してある様なもの。それを頂けていないと言う所に、まあだ妙賀不足という感じがする。
 喜び不足と言う事が感じられる。不平ども言うちゃならん不足ども言うちゃあならん。もう嘘にでもよいから喜ばして貰わなと言うてまあ申しました事ですけれど。私共が妙賀というのは、賀びの妙と、是は言わば信心を頂かなければ頂けない喜びなのだ。いわゆるお参りをする。確かに心の中に喜びの芽が出るこれが妙賀なんだ。是が育てられて行く所にです、私共の心がいよいよ和らぎ賀ぶ心になって行くの御座います。
 その和らぎ賀ぶ心を目指さして貰う。その和らぎ賀ぶ心を頂かして頂く為には、どういう信心をしたならよいか、どういう心掛けにならして頂いたらよいかと、その事ばかりをここでは朝晩、私がお話をしておる訳で御座います。私の心の上に喜びが頂きたい。私の心に、どうすれば喜びが頂けるだろうかと言う所に、私は焦点を置いての信心。そこに私共の心が、段々和らぎ賀ぶ心になり、有り難いという心になり。
 それこそ可愛いと思うその神心がです、いよいよ私共の心いっぱいに広がっていく時にです、その心の受けものに神様が尽きぬおかげ、限りのない喜びのおかげをまた与えて下さる。その中にその額も立派である絵も立派である、そういうおかげを頂くためには、もう是がこの御教えに極まったと言う様な事が書いてある。ここの新聞にねそれはどう云う事かと言うとです日に日に信心が、日に日に改まると云う事が第一だと。
 目が覚めたら元日と思い、日が暮れたら大晦日と思うて、日々嬉しゅう暮らせば家庭に不和はない。その二つの御教えで御座いました。ここんところに焦点を置いていく。信心は日々のもう改まりが第一なんだ、お話を聞かせて貰うと、はあ私はここばいっちょ改まらんなんと云う事に一生懸命になる。そして、家庭の和を願っていく。それには私どもが目が覚めたら元日と思うてと、言う様な心が必要である、ね。
 朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有り難さなのである。昼は一生懸命に御用に打ち込まして貰う、しかも実意丁寧に、今日も御用にお使いまわしを頂いて、有り難かったと云う事になる。今日もおかげを頂いて有り難う御座いますという、言わば大晦日にあれも片付け是も片付けする様に、私共の心の中に、今日もおかげを頂きまして、有り難う御座いますというのが、もうあれもこれもが解決なのである。
 そういう心で又明日の朝を迎えるのである、しかもそれは元日の心で迎えるのである。そういう、それは中々一朝一夕には、出来ない事で御座いましょうけれどもです、もうここに極まったという、私は思い込みをもってです、本気で今日一日、元日の気持ちで大晦日の気持ちで今日一日を御用をさして頂いたであろうか、今日も日々の改まりと言う事に、本気で焦点を置いたであろうかという信心をです。
 さして頂く内にですね、自分の心の中に、和らぎの心が生まれて来る、家庭の中にもそういう雰囲気が生まれて来る。一家中の者が、今日もおかげを頂いて有り難いとこう、有り難いとこうお礼を言い合える様な、家庭の中の雰囲気がです、そのまま神様がお喜び下さらない筈がない。そこに神様の助かりがある。はあもうあの氏子あの一家はもう大丈夫だと、神様が安心をして下さるね。
 あいよかけよで立ち行くというのは、私共が真実、真の道を求め、真の人にならせて頂く事を精進さして頂いて、その喜びを求め、その喜びを追求して行くと言う所に、天地の親神様のお喜びがあり、天地の親神様の安心がある。私共の心の上にも喜びがあり、いよいよ安心の生活が約束される。そこにこの額とこの絵とが成程、釣り合うて来る。そういう助かり方をあいよかけよで立ち行くんだという。
 あいよかけよのひとつの見方なのである。それは色々にこのあいよかけよ特筆がございます、相余っておるもの足りないもの言うなら男と女が、足りないもの余るものを出し合うて生活をする。是も成程あいよかけよなのである。親の事は子が願い子の事は親が願い、願い合うて行くと云う事もあいよかけよなのである。けれども本当の意味でのあいよかけよというのは私共が日々の改まりを、もう本当にそうだと思わして貰う。
 いよいよ自分の有り難い、和らぎ賀ぶ心を神心を目指して日々精進さして貰、そして家庭に不和のない生活が出来て行く所に、その家庭を中心にまたそういう有り難い雰囲気というか、有り難いその光というか、そういうものを周囲にまで及ぼして行く事が出来る。そういう働き、そういうおかげをです、神様が喜んで下さらない筈がない。そこに神様も喜んで下さる、安心して下さるのである。
 そこに額と絵との矢張り一致が出てくる。そういう信心そういう私そういう生活、家庭というのをです、築いて行くと言う所にお道の信心の私は素晴らしさがあるのだとこう思うのです。お互い、誰しもの心の中にありますのは、神心である。是はもう悪人の見本の様に言われるカンダタの心にですらあったので御座いますから、私共の心の中にもある。その心をです、誰でもこの神心を持っておるんだと。
 だからもう私共、この御教えをですね、可愛いと思う心が神心だけ頂いておった。はあ、私の中にも神心があるんだと、それで自負しておった。神心があるんだと、神の氏子としての値打ちを私は持っておるんだと言う訳なんです。ところがねあるんだとけれども何時のまにか消えておるじゃないかと。何が消しておるかというと結局、我情であり我欲なのである。ですからこの御教えの私は頂き所というのはね。
 誰しもが持っておる所のその神心というものを、自分ではっきりしたならばです、自分の心の中にもこういう喜びの心があったと、云う事が分かったならです、その心を愈々育てて行かして貰うと云う事。途中で消える事のない、途中でかえる事のない、そういう心をです、いよいよそれが花になり実になって行くと云う事を願うて行くと云う事が信心だと云う事。そこに私は可愛いと思う心が神心じゃと教えておられる。
 ところがそこまで行かなければ、この御教えの値打ちはないと、私は思うので御座います、お互いの心の中にあるその神心を、愈々それこそ、そこにはあの手この手が御座いましょう、それを育てて行く為の、所謂工夫なのである。話を聞いて言わば助かる道ではありますけれども、何故助かるかというと、そういう自分の心の中に、助かりの頂けれる話を頂くから助かるのである。
 ですからその此の方の道は、話を聞くばかりが能ではない、我心からも練り出せと仰るので御座いますから、我心からもその、この喜びをです、愈々消えん様に持って行きたい、この喜びをいよいよ育てたいという願いを、持って帰らなければならない。それをもう枯らしてはならないという、私は精進がいよいよ必要ではなかろうかと。そこにはです、どうでも日々は信心は日々の改まりが第一と仰る。
 本気で改まると言う事に焦点を置かないとです、それを何時の間にか枯らしたり、摘み取ったりしてしまう訳になるのです。それでは、言わば何年信心を続けておりましても、本当のおかげになる筈がない。またそういう信心に人が付いて来る筈もない。成程素晴らしい絵だと、素晴らしい額だと。是に皆が見とれない筈がない。矢張り金光様の御信心は、本当なものだと云う事になる。
 金光様の信心が本当なものと云う事よりもです、金光様の信心をいよいよ本当なものにする、私共の願いというものがいる。それには先ず、私共が本気で助からして貰う、という願いを立てなければならないという事なんですね。どうぞ、ひとつおかげを頂きましてね、先程、信徒会長、秋永先生がお話しておられましたあの十三日の事ですけれども、丁度まだ取上げも済まない事で、御座いますから。
 まだ最中所すらあるのじゃないかと思うのです。けれども私はこういう時にですね、私はあのいよいよ我情我欲を一つ、すきっととらせて頂く稽古には何よりも、私は夕べ総代の久富さんに話したんです。まだ取上げはまだ最中ですけれども、その日はあんた家はもう、本日休業ち表に書いときなさいって、お百姓さんですから、休業って(笑)、今日は本日休業でですね、もう家族中で、十三日会の日に出ておりなさい。
 私はその位すきっとした、信心が出来ても良いと思うのだけれど、これは総代だけではない、信者一同の上にです、とてもそげん忙しかってなんてん言わずにです、本当に自分の我情、自分の思いと、自分の欲なんかを捨て切って、おかげを頂いて行く所に。今朝から久富勇さんの奥さんが参ってみえてから、もう本当に日々、成程主人も私も色々御用といやあ御用に打ち込んで、おかげを頂いております。
 最近の様であると、夜遅うまでもう1時までも2時までも、その企画の委員会がありましたり、総代会がありましたりして、それに参加されますから、もう取り上げ中とは思われないくらいな御用ぶりである。だから仕事なる程出来ません。出来ませんけれども皆さんを見ておるとです。刈っちゃ腐らかし刈っちゃ腐らかしござれて、私の方はひとつも腐らかさずに、もうその辺のタイミングの素晴らしい事に。
 夫婦で有り難い事だと言うておりますと。そしてからまあ子供達がもう本当に私共の手に足になってからお手伝いをしてくれて、もう本当に有り難いと申しよりますと言う様なお届があった。例えば一日早うしたとに、くさらかさんならん。一日御用さして頂いて、本当にあの我情我欲を捨てる稽古をさして頂く所からです、天地があなた方の為に自由になって下さる様なおかげもまた下さる事を私は確信します。
   どうぞ。